吉本吉兵衛(泰三)はどんな人物だったの?

10月から放送が始まったばかりのNHK朝の連続テレビ小説「わろてんか」。ヒロイン藤岡てんと、夫となる北村藤吉、二人のモデルとなっているのは、吉本興業の創設者である吉本せいと吉本吉兵衛(泰三)です。

松坂桃李演じる北村藤吉は、藤岡てんのことを一途に思う、心優しい人物として描かれています。しかし、北村藤吉のモデルとなった吉本吉兵衛(泰三)は、相当な遊び人であったと言われています。

吉本興業創設者である、吉本吉兵衛(泰三)は一体どんな人物だったのでしょうか。まずは、吉本泰三がどんな人物だったのか具体的に見ていきましょう。

また、後半には実際に「わろてんか」の中で描かれている北村藤吉と吉本泰三の違いについても見ていきたいと思います。わろてんかの実在モデルが気になるようでしたら最後までご覧ください。

吉本吉兵衛(泰三)はどんな人物なの?

吉本泰三は、明治19年(1886年)、父・吉本吉兵衛と吉本ミネとの間に、吉本家の次男として生まれました。本名は吉本吉次郎。その後家業の襲名で吉本吉兵衛、吉本興業部を創設したときには吉本泰三と名乗っています。

父の吉本吉兵衛は、 高級料理店に箸を納める老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」の四代目でした。箸吉は当時商売の中心地であった船場に店を構えていました。船場の中心地は現在御堂筋と呼ばれ、大きなビジネス街となっています。

長兄の吉本吉三郎は明治18年(1885年)に3歳で夭折し、翌年に生まれた吉本泰三が跡取りとして育てられます。しかし、明治26年(1893年)に、母親の吉本ミネが死去し、4年後に父・吉本吉兵衛が迎えた後妻出口ユキの登場によって、吉本泰三の生活は一転します。

出口ユキは、小言が多く、吉本泰三を何かといじめていました。さらに、出口ユキには、連れ子の出口光三郎がいました。出口光三郎は聡明な人物で、店のことをよく手伝ったため、父・吉本吉兵衛もたいそう可愛がっていました。

吉本泰三は、父への不信と継母からの小言により、家に居辛くなります。結果、家業に身が入らなくなり、芸人遊びに走っていきました。当時箸吉は父の手腕により繁盛していました。その財力にものを言わせて、吉本泰三の芸人遊びはますますエスカレートしました。

連日芸人を率いてはドンチャン騒ぎを繰り返します。酒は飲めないが、酒に酔ったフリをするのが大好きで、芸人を連れて遊びまわっていたといいます。吉本泰三は落語や寄席、芝居見世物など、芸事が大好きで、本業の者が驚くほどの見識に溢れていました。

そのため、芸人の間では、ちょっとした有名人となっていました。これではいけないと、父・吉本吉兵衛は出口光三郎を遠縁の親戚が経営する呉服店に養子へ出します。

しかし、吉本泰三の芸人遊びは止まりませんでした。ならば結婚して身を固めればと、父・吉本吉兵衛は縁談を考えます。近所で商才のある娘がいると評判になっていた米問屋に縁談を持ちかけます。その娘こそ、林せいでした。後の吉本せいです。

吉本泰三も一目で彼女を気に入り、明治40年(1907年)に二人は結婚します。しかし、日露戦争の不景気の受け、箸吉も経営が傾いていきます。吉本泰三は吉本せいに店の経営を任せっぱなしで、自分は旅芸人と一緒に巡業に出かける始末です。

巡業で地方をまわる度に、借金も膨らんでいきました。明治42年(1909年)、大阪市電鉄の計画により、箸吉は立ち退きが命じられます。翌年店は移転しますが、経営は悪化し、父・吉本吉兵衛は自分の代で店を潰してしまうのではと不安に思っていました。




吉本泰三は5代目吉本吉兵衛

明治44年(1911年)に父・吉本吉兵衛は隠居し、吉本泰三に「吉本吉兵衛」が襲名されます。吉本泰三は5代目の箸吉当主になりましたが、当の本人はといえば、経営の傾く箸吉を叩き売り、寄席の経営を始めようと思っていました。

吉本せいは店の再建を目指しますが、結局箸吉は廃業します。箸吉の廃業後、夫婦は天満に引越し、吉本せいが針仕事をして生活費を稼いでいました。一方、吉本泰三は相変わらず芸人遊びにうつつを抜かしていました。

あるとき、大阪天満宮近くにある寄席、「第二文芸館」の経営権が売り出されているのを聞きつけ、妻に無断で購入することを約束します。吉本せいが何とか資金を工面して、大正元年(1912年)に夫婦は「第二文芸館」を購入します。

吉本泰三は、芸人遊びを通じて作った人脈を頼りに、寄席の経営者から助言を得たり、芸人を派遣してもらいました。夫婦の宣伝や工夫もあり、経営は波に乗り、大正2年(1913年)1月には、「吉本興業部」を立ち上げます。後の吉本興業です。

経営を始めてからも、吉本泰三の道楽は続いていましたが、寄席の経営者と経営拡大に向けて話を進めるなど、ビジネスとしての側面もありました。大正3年(1914年)には競合する寄席を次々と買収し、チェーン展開を始めています。

また、当時落語界には、「桂派」、「三友派」、「浪速落語反対派」の大きな派閥がありましたが、吉本泰三は寄席経営を始めてわずか10年足らずで各派閥を買収・吸収し、上方演芸を制覇してしまいました。

大正11年(1922年)には、近畿、東海、関東にも進出し、合計28館の寄席を手に入れています。吉本王国の誕生です。大正12年(1923年)には、待望の跡取り、吉本泰典が生まれます。

吉本王国も安泰かと思われた翌年大正13年(1924年)、吉本泰三は死去します。原因は脳溢血とも心筋梗塞とも言われていますが、定かではありません。享年は39歳。若すぎる死でした。

その後吉本興業部の経営の中心は吉本せいと、弟の林正之介が担います。吉本泰三は温厚な性格であったといわれています。妻や家業をほったらかしにして連日娯楽にふける姿は、今でいうところの「ダメ亭主」にも見えます。

しかし、寄席の経営に着手した吉本泰三からは、虎視眈々と上方演芸会の制覇を狙う野心的な一面も伺えます。若いころ連日芸人遊びで培った人脈をフルに活用します。

そして、商才溢れる妻の吉本せいを経営の中核に据えるといった適材適所の対応をしていることや、何より大好きな落語や芸事で一旗上げたという事実の根底には、老舗問屋の跡取りとして生まれた「経営者」としての精神があったからかもしれません。

 



吉本吉兵衛(泰三)と北村藤吉の違い

わろてんかの中で描かれている北村藤吉は、かなり吉本泰三に近しい感じで描かれているように思います。例えば、遊んでばかりで自分の家をつぶしてしまうというところはまさにその通りです。

吉本興業を創設するために尽力しているところなどからも、かなりモデルの吉本泰三さんを忠実に描いていることがうかがえます。ただ、異なっているところもまったくないかというとそんなこともありません。

例えば、北村屋がやっているのが米殻商ですが吉本泰三さんの家がやっていたのは薬問屋の商いでした。なので、形としてはてん(葵わかな)の実家・藤岡屋と逆になっている形になっています。

吉本せいさんの実家は、米殻商をしていましたのでわざと逆にして描いているのかなと思います。NHKの朝ドラでは、こういったちょっと似せていて変化をさせるというのをよく行います。

あさが来たとかとと姉ちゃんとかでもそうでした。なので、そのように考えるといつも通りに実在モデル(NHKはあくまでモチーフ)と似ているように描きつつも細部は変更しているということになるでしょうか。

わろてんかの中で、藤吉がどれだけ遊び人の気質を出していくのかというのは大きな見どころになると思います。わろてんかを見る上でも比較するのが楽しみな人物になりますね。




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