広岡浅子の生涯はヤバすぎる?その波瀾万丈の人生とは?

広岡浅子の生涯
大人気の朝ドラ「あさが来た」のヒロインあさ波留)のモデルになってはるのが広岡浅子さんだす。その波瀾万丈の生涯についてまとめてみてんねん。あさが来たを見てはるあなたにとっては、楽しめる内容になってまっせ。

 

広岡浅子さんは、小石川三井家6代目の当主の三井高益(たかます)の4女として生まれてんな。幼い頃から、裁縫やお琴などの芸事があまり好きでなく得意ではなかってんな。

 

広岡浅子さんは、4女なのですが、他の3人は幼少期に亡くなっています。なので、三井高益さんにとって、浅子は一人娘ねんな。広岡浅子さんが生まれたときには、既に父の三井高益さんは隠居に入ってたんで、それはそれは大事にされはってんな。

 

そして、浅子が9歳の時に、大事に育ててくれはった父の三井高益さんは亡くなってん。せやから、その後は浅子は小石川三井家7代目三井高喜(たかよし)さんに育てられまっせ。浅子からみた高喜の関係は義理の兄になんねんな。

 

あさが来たでは、姉はつ宮崎あおい)と弟の忠嗣興津正太郎)がいはりますが、はつの実在モデル、三井春ねんな。忠嗣の実在モデルは、三井高景(たかかげ)さんになってまんねん。

 

ただし、はつモデルの三井春さんは浅子さんとは異母姉妹で、高益の死後は、高喜の養子となってん。忠嗣モデルの三井高景さんは、高喜さんの実子です。

 

せやから、実際のところは、三井高景さんと広岡浅子さんとの関係は甥になんねんな。少し複雑やねんけど、朝ドラあさが来たでは、忠嗣が弟の設定になっていますので、その辺りが実在モデルとは異ってんねんな。





17歳で加島屋に嫁ぎます

広岡浅子さんは、9歳から17歳までは、前述した通り、高喜に育てられてん。その後、17歳には嫁に行くねんな。嫁ぎ先は、大阪で最も大きな両替屋の1つの加島屋の次男で広岡信五郎のとこねん。

 

この結婚は、2歳の頃からの許嫁で、広岡浅子さんが加島屋(広岡家)に嫁ぐことは決まっていたねん。ほんで、広岡浅子さんが嫁いで3年が経った20歳の時に、明治維新が起こり新政府への上納金の負担や新政府の政策であった銀目廃止が起きはって、加島屋の大きく店は傾くねんな。

 

せやけど、夫である広岡信五郎は加野屋の商いに対する関心が薄く、三味線や謡曲三昧の生活をおくってんねんな。そのため広岡浅子さんは実業家として自らが身を投じることになってん。

 

※ 加島屋には、信五郎の上には長男の正影(まさかげ)がいてんけど、若くして亡くなってんねん。分家に出ていた信五郎はせやから、加島屋の商いに足を入れなあかんじょうきょうやってんな。

 

また、 跡継ぎには、三男の広岡正秋(まさあき)がいてんけど、明治維新当時はまだ幼かってんな。せやから、信五郎が後見人として仕事をしはってんな。

 

潤野炭坑への参入

広岡浅子さんは、両替屋だけでは今後は厳しいことが明らかであったために福岡県飯塚市にあった、潤野炭坑を購入してんな。それが明治19年のことの出来事やってん。

 

広岡浅子さん自身、単身で炭坑に乗り込み、荒くれ者の抗夫たちを相手に一歩もひかずに、働いてもらうことができてんね。

 

懐には、常に護身用のピストルを抱え込んでいたという話は、広岡浅子さんの生涯の中でも伝説になっているエピソードの一つやねんな。炭坑経営では、炭坑の爆発などを経たことで、事業を運営する大きな経験を積むねんな。この経験が今後の広岡浅子さんの糧となんねん。

広岡浅子の炭鉱事業のその後はコチラ

 

加島銀行の設立

次に広岡浅子さんがどうしても作りたかってんが銀行やねん。斜陽産業であった両替屋から大きく炭坑へと舵をとりはったことで、加島屋は儲けがでんねんな。その儲けたお金を資本として、加島銀行を作んねん。それが明治21年のことでっせ。

 

それまで、ずっと父のかわりをしてくれた三井高喜(たかよし)が重役に入った三井銀行の設立が明治9年ねんけど、それから遅れること12年でようやく念願達成して、加島銀行を設立にこぎつけてん。

 

それは、広岡浅子が炭坑の爆発などの困難を乗り越えた経験を経て決して炭坑経営を諦めへんかったことから、実現したバンクの設立やってんね。

加島銀行の設立詳細はコチラ

 



 

日本女子大学の設立

明治29年に、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵と初めて会うねんね。これが広岡浅子さんが大学設立に進むきっかけになんねんな。自らも学問を学ばせてもらえなかった経験もあり、女子大学設立に向かって動きだしてん。

 

せやけど、成瀬仁蔵に資産があるようにはどうしても見えへん。この資金の問題などもあったために、暗礁にのりかけててんね。そんな大学設立の夢がかなったんは、明治34年のことやねん。

 

土地の問題や、東京でたてるのか大阪でたてるのかなど、様々なことを考えたうえでの大学設立は、広岡浅子さんにとって何よりの喜びだってんな。自分が幼少期に苦労した学問についておなごでも学べるようになってんは、喜びもひとしおやってんね。

日本女子大学の設立詳細はコチラ

 

大同生命の創業に参画

広岡浅子さんは、自らが加島銀行で業務をしている時にお金を貸さなかった相手に刺されるという事件が起こんねん。

 

そのことで、命の大切さというものを改めて認識し、これからは生命保険だということで、数社の生命保険会社の合併を計画すんねん。

 

その合併で誕生した生命保険会社が今日においても、日本での法人契約ナンバーワンを誇る大同生命だったねんな。

大同生命誕生の詳細はコチラ

 

広岡浅子さんの病気と死因

広岡浅子さんは、実は何度か死にかけるような大きな出来事に見舞われてんねんな。一つは、前述した大同生命の設立のきっかけとなった、お金を貸さなかったことに対して怒ったお客に刺されたことやねん。

 

この時には、広岡浅子さんは一時危篤状態に陥ります。せやけど、その際にも驚異的な生命力が勝り見事に復活すんねん。その次に、乳がんやねん。これは、若い頃からずっとあったしこりがやがて大きくなってきてんな。

 

せやから、広岡浅子さんが60歳の頃に帝国大学(今の東大)で手術します。拳ほどの大きなはれとしこりがあってんけど、他への転移がなく切り取ったことで、なんと当時ではありえなかった、癌を克服してんね。

 

そして、乳がんから8年後、広岡浅子さんは亡くなんねんな。亡くなった原因は、腎臓炎やねん。一人娘の亀子に対し、遺言は「わたしが言ったことすべてや」と言って亡くなりはるねんな。それは大正8年、広岡浅子さんが70歳の時でした。

 

ちなみに、広岡信五郎さんは広岡浅子さんよりかなり先に先立ってんねん。明治37年に64歳で亡くなってん。広岡浅子さんが56歳の時やさかい、信五郎が無くなって10年以上広岡浅子さんは生き抜いてんねん。





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