広岡浅子の加島銀行成功の陰に渋沢栄一がいたの?

広岡浅子さんが女性の実業家として、興した事業の一つとして加島銀行があんねんな。その銀行を興した陰で、広岡浅子さんがアドバイスを求めた存在として銀行の神様と言われた渋沢栄一さんの存在があんねんな。

 

広岡浅子さんは、両替商として加島屋が傾きかけはった時に始めたのが、加島炭鉱です。その加島炭鉱で爆発事故が起きたさかい、賠償などの金銭的な負担があった関係でしばらく銀行設立の夢を中断していた広岡浅子さん。

 

せやけど、爆発事故の後にも加島炭鉱で事故に注意しながらも更に事業を拡大していってんね。そうして、2年が経過した頃に、本格的に銀行設立に向けて動き出してんね。その際に広岡浅子さんが相談したかってんがあの渋沢栄一さんだす。

 

渋沢栄一さんは、当時「銀行の神様」という異名をもつ東京一の実業家やってんね。東京なので、さすがにいきなり行っても会えへんと思った広岡浅子さんは、渋沢栄一さんにまずは、手紙を送りはんねん。

 

銀行経営について、教示して欲しいという想いを手紙にしっかりと綴り、東京に会いに行きたいということを伝えんねん。すると、大阪に用事のあった渋沢栄一さんが、大阪で会ってくれはるということになってんね。

 




 

そして、広岡浅子さんは渋沢栄一さんに会いまっせ。そこで、銀行を始めたいので、それについて教えをこいまっせ。せやけど、渋沢栄一の「赤字をださないこと」という当たり前のような回答に広岡浅子さんはがっかりしはります。

 

がっかりしている様子をみはった渋沢栄一さんは、逆に一番大切なことを何かと広岡浅子さんにといはります。広岡浅子さんは、お金と答えはります。せやけど、渋沢栄一さんは「お金は不要で、大事なのは信用だ」ということを話しはります。

 

そして、信用ときづくためには誠実に商売をしはることやねんとアドバイスされまんねん。それに納得した広岡浅子さんは、2、3時間話した渋沢栄一さんの印象を紳士な男性で腰が低いと感じ好印象をもってんね。

 

この渋沢栄一さんとのたった2、3時間の出会いが、今後の広岡浅子さんの人生を大きく左右することになんねんな。

 




 

加島銀行の設立と日本初の試み

そして、いよいよ、念願の加島銀行を発足させんねんな。初代頭取は広岡新五郎の弟で加島家の本家の広岡正秋が就任してはります。新五郎は副頭取をつとめてんねんな。

 

所有する株は、正秋と新五郎と浅子の3人で約7割を保有してん。この時代、様々なところで銀行の設立が相次ぐ中で加島銀行広岡浅子さんの試みで史上初のことを試みてんねんな。

 

それは、女性の銀行員を採用しはったことやねん。当時、女性は工員という仕事しかあれへん。銀行員などの会社員になれる道があれへん状態やってんね。

 

せやから、これには頭取の広岡正秋は実は失敗するとみていてんね。夫の新五郎でさえも、どちらに転ぶかわからないと思っていてんけど、広岡浅子さんは、絶対にうまくいくと確信したものがあってんね。

 

その背景には、渋沢栄一さんの人間育成という言葉があってんね。渋沢栄一さん自身、東京商法講習所(現一橋大学)を設立して人間育成を行ってん。

 

せやから、広岡浅子さんも人間育成をしなければという想いがあってんね。そして、広岡浅子さんの想いは女性に向きはってんよ。

 

そして、女性の銀行員を採用し、その当時数字に弱いとされていた女性に徹底的に算盤を練習させはったのが広岡浅子さんのしはったことやってんね。

 

それが見事に成功しはって、女性の銀行員を採用して華がでた加島銀行は、またたくまに預金獲得を増やし、一気に業績をあげはりました。そして、このことがやがて、広岡浅子さんのもっと大きな女性教育へと進むきっかけになりはったのでした。

 




 

関連記事



 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)