広岡浅子の炭鉱はその後どうなったの?

広岡浅子さんが興した炭鉱事業がその後どうなりはったんか注目が集まってんねんな。また、炭鉱の改革についても気になるとこねんな。

 

せやから、今回は加島炭鉱のその後についてお伝えしていこうと思うねんな。炭鉱購入から始まり、改革やその後の動向について順番にみていきまっせ。

 

炭鉱事業は、後に女性実業家として大活躍する広岡浅子さんが始めた最初の事業になんねんな。江戸時代から続く豪商の両替商の加島屋が、明治維新の時代背景の中から大きな借金を追い、ピンチの時に、広岡浅子さんが始めたのが炭鉱事業だってんな。

 

夫の新五郎が謡曲ばかりしてはるんで、もっと商売に力をと浅子が言った時に、謡曲も大きな商売をしよる友人も大勢いてはる。

 

そして、最近では両替商の新五郎炭鉱話を持ってくる奴がおると言ったことが、広岡浅子炭鉱事業を始めるきっかけになってんな。

 

炭鉱が気になった広岡浅子さんは、そのことを義兄である三井高喜に相談すんねんな。高喜は、父亡き後の父親代わりをしてくれた存在で、商売の師匠でもあんねん。

 

この当時、倒幕前から三井は新政府に援助していたことで、いろんな情報が入っててんね。せやから、高喜は、炭鉱が将来期待できる商いであると広岡浅子さんに話すねんね。

 

鉄道などの日本の国力を増すためには、炭鉱は絶対必要になんねんから、政府が奨励するのも間違いあらへんといわれます。

 

ただし、抗夫を相手にせんといかん、大変な商売であるとも話すねんな。ただ、広岡浅子さんなら出来るかもしれへんとも言います。そして、買い手を探している炭鉱を高喜が見つけてきてんな。

 

夫の新五郎は反対しはるねん。炭鉱を買うお金もないし、九州で遠くなって寂しいからねんな。しかし、広岡浅子さんがやると決めたら止まりません。

 

加島屋にあった様々なものを売って、支払いをなんとか分割にしてもらいはって、炭鉱を買取るねんな。その買った炭鉱が九州の潤野炭鉱でっせ。

 

せやけど、いざ九州の炭鉱に行ってみると、抗夫達が一切働きへん状況やねん。これには、浅子も予想してない状況やってんな。

 

飯場主を集めて、仕事をするように話すねんけど、おなごのいうことは聞けないの一点張りで、まったく働こうとしいへんままねんな。

 

また、加島屋が倒産するかもしれへんから、あやしいという噂で、給料も払われへんなるいうて働かん状況が続くねんな。

 

女、女とバカにする抗夫についに広岡浅子さんは、キレて外国では平等だし卑怯であると話すねんな。そうすると、一人の抗夫が浅子に突っかかってきて、胸ぐらをつかんだことで、服の内側が見えます。

 

懐には、ピストルを忍ばせていた浅子の覚悟をみて抗夫たちはビックリします。その影響もあって、抗夫たちは働くようになんねんな。

炭鉱の改革

その後、順調に炭鉱事業は推移していくねんけど、広岡浅子さんは炭鉱事業の改革に踏み切るねんな。納屋頭という制度が、ピンハネしていることで、その下の抗夫の暮らしがいっこうに良くなってへんかったからねんな。

 

しかし、炭鉱の親分や支配人、納屋頭みんなに反対されんねんな。せやけど、広岡浅子さんは一人一人と真剣に向き合って、なんとか改革を進めようとしてんね。

 

そして、一人ずつ話をしたことが功を奏し、改革に賛成してくれる人がどんどん増えてくねんな。抗夫たつは、これまで以上に収入に仕事が直結すんねんから仕事を一生懸命してくれるようになんねんな。

 

炭鉱事業が軌道に乗ってきたさかい、加島屋の商売も利益がでだしまんねん。せやけど、その利益のほとんどが炭鉱事業になってんね。せやから、広岡浅子さんは銀行を設立したいと考えるようになんねんな。

 




 

爆発事故後の炭鉱とその後

そんな矢先、順調に思われた加島炭鉱は大きな爆発事故に見舞われんねん。なんと爆発事故を起こし死者をだしてしまうねんな。

 

広岡浅子は、大阪に帰っていて、しかも娘の亀子が大病で生命の危機に陥っている中、九州の炭鉱現場にかけてんね。

 

炭鉱現場は、煙が大きく上がり、むちゃくちゃ大きな火事になんねんな。もう爆破で死んではる抗夫の家族もかけつけて、大変なことになっててんね。

 

浅子は、消防に火を消すことを命じ、遺族には一人一人に謝罪と賠償をしていくことを伝えていくねんね。明治19年に買ったこの加島炭鉱は、当初はこの事故による賠償金が大きく一気に赤字の状態になってんね。

 

せやから、加島屋は銀行の設立を目指していてんけど、この賠償金のために、銀行設立は延期を余儀なくされてんね。

 

その後は、中国の上海への輸出などの影響もあってんさかい、年月をかけて黒字経営を取り戻してくねんね。二度と事故が起こらないように細心の注意をはらいながら、加島屋の屋台骨となってん。

 

この事業の成功と爆破事故こそが広岡浅子さんの実業家としての大きな大きな経験になってんな。その後、この潤野炭鉱は、明治19年に広岡浅子が購入してから13年後の、明治32年に売却していまっせ。

 

売却先は、政府ねんな。当時あり得ないような金額の35万円で売却してん。35万円は、現在の価格になおすと1000倍以上になってますので、3.5億円以上になってんねんな。

 

その後は、政府から新日鉄に持ち主が変わってんねん。もし、ずっと加島屋が持っていたら大同生命やユニチカ、日本女子大学のように現在までつづく大きな事業になってんかもしれへんねんな。

 




 

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