朝ドラ「エール」モデル古関裕而(こせきゆうじ)はどんな作曲家なの?

朝ドラ「エール」の主人公・古山裕一(窪田正孝)は、古関裕而(こせきゆうじ)さんをモデルにしています。ドラマでは、史実と違った展開も予想されますが大筋は、古関裕而さんの人生通り描かれています。

古関裕而さんについて知るなら動画がいいという場合はコチラからご覧いただけたらと思います。古関裕而さんのインタービューもあり、よくまとめられています。文章が言いなら、動画を飛ばしてお読みください。

朝ドラ「エール」モデル一覧



古関裕而さんのことを知る前に、朝ドラ「エール」に登場するいろんな人物についても一覧にしています。古関裕而さんだけでなく気になるモデルがどんな人だったのか好きな人からご覧ください。

実在人物 ドラマ
古関裕而(こせきゆうじ) 古山裕一(窪田正孝)
古関三郎次(こせきさぶろうじ) 古山三郎(唐沢寿明)
古関ヒサ(こせきひさ) 古山まさ(菊池桃子)
古関弘之(こせきひろし) 古山浩二(佐久本宝)
武藤茂平(むとうもへい) 権藤茂兵衛(風間杜夫)
遠藤喜美治(えんどうきみこ) 藤堂清晴(森山直太朗)
伊藤久男(いとうひさお) 佐藤久志(山崎育三郎)
野村俊夫(のむらとしお) 村野鉄男(中村蒼)
古関金子(こせききんこ) 関内音(二階堂ふみ)
内山安蔵(うちやまやすぞう) 関内安隆(光石研)
内山ミツ(うちやまみつ) 関内光子(薬師丸ひろ子)
関内吟(松井玲奈)
関内梅(森七菜)
三浦環(みうらたまき) 双浦環(柴咲コウ)
打越金助(平田満)

 

古関裕而とは?

古関裕而さんは、明治42年(1909)8月11日に呉服屋の「喜多三」の長男として生まれます。出身は、福島県です。この辺りは、朝ドラ「エール」の中でそのまま描いています。

「喜多三」のところが「喜多一」になっているだけで、そのまま描かれてます。朝ドラの古山裕一の性格は、気弱でいじめられっ子という設定になっています。

 

この部分も古関裕而さんの著書で「教室の中で大人しく目立たない存在だった」と自ら記しています。なので、「エール」でも近い感じに描いています。

叔父が経営する銀行に勤めていたという部分も史実通りとなっています。その後、関内音(二階堂ふみ)から手紙をもらい、文通してその後に結婚というところも同じです。

 

古関裕而さんと奥様の古関金子(こせききんこ)さんの出会いも忠実になぞっています。なので、今回の朝ドラ「エール」ではかなりモデル通りにストーリーが作られていることがわかります。

では朝ドラの主人公のモデル古関裕而(こせきゆうじ)さんが、実際にどのような人生を辿ったのか具体的にみていきましょう。

呉服屋の長男

古関裕而さんは福島に代々経営されてきた、呉服屋「喜多三」の長男として生まれました。こちらの「喜多三」は、江戸時代初期から続く老舗であり創業から福島の地で経営されてきています。

地元有数の呉服屋であり古関裕而さんが生まれた時は、父の古関三郎治さんが7代目となっていました。古関家は代々当主となると、「三郎治」という名前を襲名しています。

 

家業が順調に継続して古関裕而さんが当主になっていたら、古関三郎治として8代目を襲名していたかもしれません。しかし、「喜多三」は古関裕而さんが学生の時に倒産してしまいます。

当時、古関三郎治さん・古関ヒサさん夫妻は子どもに恵まれず、養子をもらうことも考えていました。その矢先に古関裕而さんが生まれます。待望の子どもということで大切に育てられています。

 

古関裕而さんに続けて、弟の古関弘之(こせきひろし)さんも生まれているので古関家は一気に後継者を得ました。古関裕而さんは、長男として生まれていますが家を継ぐ意思はありませんでした。

そのために、古関裕而さんは商業高校に行ってはいましたがハーモニカバンドに夢中になっていました。家業の呉服屋「喜多三」が倒産してしまうことも関係ありますが、音楽への情熱の方がより強かったのです。

 

家の近所には、鈴木喜八さんという5歳上のガキ大将がおり、この人が後々、野村俊夫さんというペンネームで古関裕而さん、伊藤久男さんと福島三羽烏と呼ばれるようになります。

ちなみに、古関裕而さんもペンネームです。本名は古関勇治(よみは同じ)です。勇ましい感じは、自分には合わないと音楽家らしい名前に変更しています。

音楽との出会い

家では古関三郎治さん・古関ヒサさん夫妻が音楽好きでした。そのため、幼少期から音楽に親しんできた古関裕而さんは音楽好きに成長していました。福島県師範付属小学校に入学し、運命的な出会いをします。

小学校3~6年生で担任となった遠藤喜美治先生との出会いです。遠藤喜美治さんの実家は農家でしたが、次男だったこともあって教師となるために、代用教員から正式な教員となった人です。

 

教育方法も変わっており、生徒に作詞作曲させてそれを音楽の授業で合唱させていました。古関裕而さんはこうした授業で、楽譜も読めるようになり授業だけではなく自身でも作曲をしていきます。

市販で売っている妹尾楽譜を買って、クラスメイトが古関裕而さんに作曲を依頼してくるまでになっていました。音楽が好きでも、作曲には知識が必要です。その基礎を小学生の時に学んでいたのです。

 

楽譜が読めるようになっていたことで、古関裕而さんは才能を開花させていきます。古関裕而さんが作曲家になったあとも、遠藤先生とは相談できる間柄でした。

そのため、古関裕而さんと遠藤喜美治さんは合作で、現在の福島市立大森小学校校歌を作っています。先生と教え子が一緒に作品を作るというのは、二人にとってはとても嬉しい出来事でした。

 

音楽との出会いは、その後の古関裕而さんが進んでいく道を示してくれていました。やりたいことが見つかるということは、とても幸運なことです。大人になっても見つけられない人はたくさんいます。

そうしたことを考えると、古関裕而さんの心はワクワクが止まらなかったと思います。古関裕而さんは、作曲すること自体が楽しかったのだと思います。

家業が倒産

順風満帆に思えた古関裕而さんですが、古関家にとって一大事件が起きてしまいます。古関三郎治さんが友人の連帯保証人となったことで、借金を古関三郎治さんが払うことになってしまいます。

この借金のおかげで資金繰りが悪化し、ついに呉服屋「喜多三」は倒産してしまいます。当時、福島商業学校に通っていた古関裕而さんは、この倒産という事実をどう受け止めたのでしょう?

 

家業を継ぐために商業学校に通っているのに、「喜多三」が倒産してしまっては何も意味がありません。とは言うものの、古関裕而さんは勉強よりハーモニカに夢中でした。

ハーモニカを常に持って作曲していたので、渡りに船だったのかもしれません。作曲も貪欲に追及しており、本なども集めています。

 

独学ですが才能があるからこそ更なる磨きをかけることで、より研ぎ澄まされていきます。学生時代に自身が作曲した曲を編曲して、多くの生徒で演奏することもよくありました。

そして、商業学校を卒業するころに福島ハーモニカ―ソーサエティーに入ります。ハーモニカバンドとして、日本の中でも有名なバンドで作曲や編曲、指揮をしていました。

しかし、母の古関ヒサさんの兄・武藤茂平さんが頭取をつとめる川俣銀行へ勤務することにもなりました。武藤茂平さんに誘われて、古関裕而さんは断る理由もなく川俣銀行に入社します。

 

武藤茂平さんは、子どもがいなくて古関裕而さんか古関弘之さんのどちらかを養子にしたいと考えていました。そのため、武藤茂平さんはそのまま銀行に勤めて後継ぎになってくれたらと考えていました。

しかし、父・古関三郎治さんは、自分が呉服屋「喜多三」を継ぐと思ってなかった経験から古関裕而さんに自由に歩ませたいという考えをもっていました。

電撃結婚

古関裕而さんは、川俣銀行に勤めながらも作曲活動を継続して行い海外の作曲コンクールに作品を応募します。そして、イギリスの作曲コンクールで見事入賞します。管楽器を使った舞踊組曲「竹取物語」です。

この入賞は日本人初でした。当時の大々的に新聞で紹介されています。この紹介する記事を読んだ一人の女性が、古関裕而さんにファンレターを送りました。この女性が古関金子(こせききんこ)さんです。

 

この古関金子さんのファンレターから二人の交際がスタートします。福島と愛知との遠距離恋愛でしたが、愛に距離は関係ありませんでした。

文通を始めて3か月後、2人は結婚します。今でいうと、スピード婚です。古関裕而さんが熱烈に古関金子さんを愛し、共に生きるパートナーとして熱望していました。

 

その熱烈ぶりは自身で作曲した曲を全て古関金子さんに捧げるというほどぞっこんです。二人は揃って福島に行き、結婚しました。しかし福島での暮らしはすぐ終わり、上京します。

日本コロムビア専属

古関裕而さんは福島で古関金子さんと結婚後すぐに上京していますが、これには理由があります。日本コロムビアから招かれたのです。専属の作曲家として、働き始めます。

なぜ招かれたのかと言えば、山田耕筰さんの著作を読んで独学して事務所に楽譜を送付していたためです。山田耕筰さんは日本コロムビアの顧問をしており、古関裕而さんを推薦しました。

 

ただ、日本コロムビアに入社したのは、古関家が経済的に苦しく仕送りをするためだったともいわれています。こちらの方は現実味があるかもしれません。

本人は海外へ行って作曲の勉強をしたかったのですが、置かれた状況がそれを許してくれません。自分が作曲したいクラシック曲から、大衆受けする曲を作るようになります。

 

どのような曲を作っても、才能があり才能を活かせるセンスと努力を重ねていたので問題なかったでしょう。大ヒット曲は入社から6年後、1935年発表の「船頭可愛や」です。

この曲が大ヒットしたことによって人気作曲家として名が知られるようになりました。この曲は、三浦環さんも気に入ってレコードとして残しています。

 

古関金子さんは帝国音楽学校へ入り、同時期に伊藤久男さんも同校へ入りました。声楽家としての才能は抜きんでており、夫婦揃って音楽的な才能に恵まれています。

福島三羽烏

古関裕而さんと同じように、福島出身の音楽家が日本コロムビアへ集まっていました。伊藤久男さん、野村俊夫さんです。

ともに福島県出身で作詞を野村俊夫さんが行い、作曲は古関裕而さん、歌唱は伊藤久男さんという住みわけがなされていました。三人が揃って1曲に仕上げた曲も多くあります。

3人揃っての曲

「暁に祈る」
「シンガポール晴れの入城」
「嗚呼神風特別攻撃隊」
「若き日のエレジー」
「岬の灯り」
「メコンの舟歌」
「二本松少年隊」

 

野村俊夫さんとの作品

「福島行進曲」
「アメリカ爆撃」
「かちどき音頭」
「薔薇と蜂蜜」
「夜船の灯り」
「茨城県太子町立袋田小学校校歌」
「スカイラインの歌」
「故郷はいつも瞼に」

伊藤久男さんとの曲

「宮崎県民歌(初代)」
「蝉雨を衝いて」
「露營の歌」
「巨人軍の歌(野球の王者)」
「海の進軍」
「大東亞戦争陸軍の歌」
「みなみのつわもの」
「海を征く歌」
「あの旗を撃て」
「栄冠は君に輝く」
「イヨマンテの夜」
「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」
「恋を呼ぶ歌」
「君いとしき人よ」
「ひめゆりの塔」
「サロマ湖の歌」

三人がそれぞれに発表している曲も含めれば、今でも知られている曲が多く出てきます。一時代を三人で築いていたと言っても過言ではありません。

現代において、ここまで歴史に残る曲を作った人はいないと思います。だからこそその功績は輝いているのです。三人に共通していることは、戦前と戦後において作る曲が違います。

戦争の中で

戦後から2020年現在で75年経過しており、戦争中そのような空気だったのかうかがい知ることはできません。しかし、当時の新聞や音楽を聴いてみると政府(軍)が国民を戦争へ誘導していたかが分かります。

古関裕而さんが作曲した曲を戦前と戦後で見比べると、その違いは一目瞭然です。歌を聴いて戦地での士気を高めるという、曲を作っていました。時代という波には逆らえません。

 

現代から見ると、なぜ戦争をしたのかという批判をよく目にします。しかし、それは後世の目から見ただけで、その時代を生きて体感していないから言えることです。

古関裕而さんは割り切って作曲をしていたのだと思います。割り切れなかった人は、伊藤久男さんです。戦前に自身が歌った歌で戦地へ行き、何人の人が亡くなったのか?

 

敗戦から酒浸りの生活を送り、歌を歌うどころではなくなっていました。古関裕而さんも自責の念は持っていましたが、戦後は日本が明るくなるような曲を作るように努めています。

人それぞれに想いはありますが、それでも生きていくしかありません。野村俊夫さんも初めは戦争を助長するような作詞をせず、内務省のブラックリストに載っていたそうです。

 

生活のため仕方なく作詞のニュアンスを変えて、何とか生活していました。生活のためには主義主張にこだわっていられません。古関裕而さんを含めた福島三羽烏の戦争は、心の中に爪痕を残したのだと思います。

晩年

戦後復興していく日本において、古関裕而さんはテレビ出演など露出が増えていきます。そもそも、戦後三種の神器と言われた洗濯機・冷蔵庫・テレビは経済復興を遂げつつある日本の成功の証でした。

ラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルと活躍の幅が広がっていきます。森光子さんが晩年まで公演していた「放浪記」は、劇作家の菊田一夫さんと古関裕而さんが組んで作り上げたものです。

 

こうして細かく観察していくと、現代にまで通じるものがあります。人の命には限りがあり、徐々に弱ってしまうのも仕方のないことです。

 

古関裕而さんも晩年には入院生活をするほどに体調が悪化し、最終的に脳梗塞が原因で亡くなります。亡くなるまでに、福島市名誉市民や「栄冠は君に輝く」から30年周年記念の大会へ招かれもします。

しかし、体調が悪く行くことができませんでした。国民栄誉賞も死後に贈られることになりましたが、家族が辞退しています。

作曲数は5000曲

古関裕而さんが生涯に作曲した曲は5000曲に上ります。途方もない数です。上記でご紹介したほかにも、一部ですが作曲された曲をご紹介していきます。

戦前の曲

「紺碧の空~早稲田大学応援歌~」
「東京農業大学応援歌 カレッジソング」
「ミス仙台」
「大阪タイガースの歌」
「慰問袋を」
「愛國の花」
「婦人愛國の歌」
「憧れの荒鷲」
「荒鷲慕いて」
「嗚呼北白川殿下」
「英國東洋艦隊潰滅」
「みんな揃って翼賛だ」
「斷じて勝つぞ」
「航空監視の歌」
「空の軍神」
「大南方軍の歌」
「戰ふ東条首相」
「決戦の大空へ」
「若鷲の歌(予科練の歌)」
「撃ちして止まん」
「ラバウル海軍航空隊」
「制空戦士」
「雷撃隊出動の歌」
「臺灣沖の凱歌」
「フィリピン沖の決戦」

ここにご紹介した曲は全て戦前の歌です。見ての通り、戦地へ向かう人や日本本土の国民へ向けてのアピールを前提にした曲が多くあります。

これらの歌は、現在となっては異様に映ると思いますが当時の空気を少し感じ取ることができるでしょう。古関裕而さんが望んで作った曲ではなかったと思います。戦後の曲もご紹介していきます。

戦後の曲

「夢淡き東京」
「白鳥の歌」
「雨のオランダ橋」
「三日月娘」
「とんがり帽子」
「フランチェスカの鐘」
「スポーツ県民歌」
「長崎の鐘」
「別れのワルツ」
「われらが愛知」
「サクランボ大将」
「あこがれの郵便馬車」
「君の名は」
「みどりの馬車」
「スカーレット・オハラ」

戦後も一部だけご紹介ですが、曲が明らかに戦時色はありません。古関裕而さんが本来作っていきたかった曲とはこのような感じの曲だったのだと思います。

古関裕而のまとめ

古関裕而さんについて詳しくお話してきました。呉服屋の長男として生まれましたが、家業は倒産してその後は実家への支援をしながら自身の作曲を続けたという人です。

自分がやりたいことをしている人がどれだけいるでしょう?現代でもやりたいことをして行ける人は少ないですが、当時は今以上に生きていくことが難しかった時代です。

 

早くに結婚して、おしどり夫婦として音楽家として古関金子さんと二人三脚で生きた人生だったと言えるでしょう。戦争時に曲を多く作っていますが、これは本人が望んでいたわけではありません。

時代が作らせたものであり、流れには逆らえなかったのです。戦後は作りたかった曲を作れるようになり、筆者も知っている曲で「モスラの歌」があります。

 

怪獣映画の「ゴジラ」に出てくるモスラという蛾の大きな怪獣は、小美人が歌ってモスラを呼び出す際に歌われました。独特な雰囲気の歌なので、今でも思い出せる歌です。

あとはドカベンの挿入歌「あぁ甲子園」でしょう。この「ドカベン」はマンガが近年まで続いていたので、マンガを知っている人は多いと思います。

アニメ音楽自体は1977年に制作されたものなので、歌を知らない人もいるでしょう。一度聴いてみるのもおすすめです。ということで、古関裕而さんの紹介をしてきました。

 

NHKの朝の連続テレビ小説「エール」の中で、古関裕而さんがどのように描かれていくのかとても楽しみですね。かなりモデル通りに描かれているので期待したいと思います。


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