陶芸家・神山清子の人生/息子の白血病から骨髄バンク設立も!?

このページは、朝ドラ「スカーレット」のモデルになっている神山清子(こうやまきよこ)さんについて紹介します。神山清子さんがどんな陶芸家でどんな人生を歩んできているのか。

息子賢一さんの闘病も併せてくわしく解説していきます。神山清子さんといえば、信楽自然釉の陶芸家です。

 

また、息子の賢一(けんいち)さんが白血病で長く闘病していたため、ドナーの普及活動を行い骨髄バンク設立に尽力したことでも有名です。

今回の朝ドラ「スカーレット」ではそんな神山清子さんの人生をモデルにストーリーが描いていきます。



神山清子はどんな人なの?

神山清子(こうやまきよこ)さんは、1936年8月2日生まれの現在82歳です。Twitterの写真を見ると、まだまだ元気そうですよね。生まれは、長崎県佐世保市です。

父が九州の炭鉱で働いていたため、長崎県佐世保しで神山清子さんは生まれます。神山清子さんが小学2年生の時に、父が炭鉱を追われる形で滋賀県の日野にやってきました。

 

父は、朝鮮人を炭鉱から脱走する手助けをした疑いで警察に追われたために佐世保を後にしたのです。逃げる清子一家を助けてくれたのも朝鮮人でした。清子さんたちをかくまってくれたのです。

なんとか逃げ切って滋賀の山里に来た時、清子さんはすがすがしい気分でした。嬉しくて、まるで遠足のような気分で滋賀にやってきました。ほどなくして、日野から信楽町に移ります。

 

清子さんの家は、とても貧しく着るものや服にも困りました。しかし、母のトミさんが服や靴を作ってくれていました。清子さんはトミさんが作ってくれる服や靴が好きでした。

それをクラスメイトにバカにされていじめられることがよくありました。しかし、清子さんはその話を絶対に母や父には言いませんでした。いつも笑顔でなんでもないと答えたのです。

 

清子さんが幼いころに好きだったのは、文学の本を読むことでした。しかし、夜にランプをつけて読もうとすると油がもったいないと父から厳しくしかられました。

それでも文学の本がどうしても読みたかった清子さんは、ある本に書いてあった蛍を集めて読むという方法を実践してみます。蛍をつかまえてきて、布団の中にもぐりこみます。

 

すると、本に書いてあったように本当に蛍の明かりで本が読めました。清子さんの家は、電気や水道が通ってなかったので蛍を集めて本を読むことで、自由になれた気がしました。

小学生の時に、清子さんが特に好きだったのは絵を描くことでした。時間さえあれば、いつも絵を描いている。清子さんはそんな少女でした。やがては、美術大学に行って画家になりたいという夢をもっていました。

 

しかし、女学校を卒業後に父に強制的に和裁学校に通わさられてしまいます。それでも、清子さんは絵を仕事にすることをあきらめることはありませんでした。

絵付け師

清子さんは、和裁学校を卒業した後に信楽で絵付け師に弟子入りします。幼いころから絵で食べていきたいと思っていた清子さんにとって絵付け師の仕事は信楽にある絵で食える唯一の仕事でした。

しかし、弟子入りした絵付け師の先生は気が短く清子さんは毎日のように理不尽に怒られました。そのため、弟子を1年も続けることができず辞めてしまいます。

 

その後も絵付け師の仕事をしたいと探していた清子さんに、知人が絵付け師の仕事を探してきてくれました。陶工店で雇われた清子さんは絵付け師の中で、一人だけ女性でした。

自分はまだ絵が描けないし、早く絵を描けるようになりたいという気持ちから誰よりも早く出社して絵を描きつづけました。来る日も来る日も一番早くに来て最後に帰る。清子さんはそんな生活をずっと続けていました。

 

そして、清子さんが働く陶工店には有名な芸術家も出入りしていました。篠田桃紅や岡本太郎らです。清子さんは、篠田桃紅先生に憧れ、いつかあんな先生になりたいと思っていました。

そうおもいながら、朝から晩まで毎日絵を描きつづけていると、いつの間にか陶工店の絵付け師で主任になりました。

 

その後、陶工店の絵付け師の部署に神山易久さんが異動で来ました。絵付けの仕事をしながら、清子さんと易久さんは恋に落ち、自然な流れで結婚に至りました。

 

そして、清子さんは賢一さんと久美子さん出産します。その後も絵付け師としての仕事を続け、誰よりもパワフルに働きました。その働きぶりは、職場の同僚から「働き者のきよちゃん」というニックネームがつくほどでした。

子供2人産んでからも清子さんは会社を休むことはなく働き、充実した毎日を送り続けていました。しかし、陶工店で清子たちが絵を描いていた火鉢が売れなくなり始めました。

 

世の中で火鉢があまり使われなくなり始めたのです。絵付け師が絵を描いていた火鉢は高級だったため、なおさら売れなくなりました。会社は急激に業績を悪化させます。

それを感じた清子さんは、陶工会社をあっさりと辞めました。世の中の流れを見て、火鉢に絵を描くという仕事が長く続くと思わなかったのです。

 

退職したものの、清子さんはどのような仕事をしようか考えていませんでした。そんなある日、家にいると子供たちが泥団子をつくって遊んでいました。それを見て、泥団子の皿のように信楽焼を焼いてみたいと思います。

窯を持っている知人にお願いして、清子さんは焼き物を作らせてもらいます。焼きあがると、これまでにない斬新なものが出来上がっていました。

 

これまでになかった「小文様皿」や「編込皿」といった皿を清子さんは、信楽焼で初めて作ったのです。そして、それを朝日陶芸展に出品すると、いきなり入賞を果たすのでした。

信楽焼のあらゆる賞の中で、女性陶芸家が入賞するのは初めてのことだったので、「神山清子」の名前は陶芸家として一気に世の中に広まりました。それだけ、清子さんの活躍は他の女性陶芸家に夢を与えたのです。

離婚



その後、清子さんは本格的に信楽焼を自分で焼くことをスタートさせます。清子さんのこだわりは、穴窯にするということです。電気窯ではなく、穴窯にして信楽の土を使った信楽焼きです。

夫と一緒に作った穴窯に何度も何度も焼き物を入れますがうまく焼きあがりません。「寸越窯」と名付けた窯がうまく機能しなかったのです。

 

穴窯で焼き物ができない中で、夫が別の女性を作って家を出ていきました。清子と子供2人を捨てて駆け落ちしてしまったのです。それも影響して、ますます穴窯で理想の信楽焼きを仕上げたい。

機械や釉薬を使わない理想の信楽焼きを作りたい。そう思って、何度も何度も窯に薪を放り込みます。離婚しても陶芸家としては「神山」を名乗り続け、今度こそ絶対に成功させると闘志を燃やしたのです。

 

何度も窯を燃やしているうちに、次第に資金が底をつき始めます。それでも窯を燃やしていると、近所から窯を見にやってくる人が何人もいました。

入れ替わり立ち代わり、いろんなアドバイスをくれて窯をかきまぜたりしますがそれが原因で、うまくいかないことばかり。やるだけやって、この窯では無理だと言われたり。それが1回、2回と増えていきます。

 

清子さんはやがて決めました。他人に頼らない。自分で責任をもって全部やる。そういって、窯たき日誌を取り出してこれまでダメだった原因の分析を開始しました。

そして、火事が起きたのでは?と思うほどに煙が出た次の窯たきで、清子さんは自分の理想の信楽焼をつくることに成功したのです。清子さんは涙を流して喜び、自分の焼き物に「信楽焼自然釉」と命名しました。作品はコチラ

 

近所の信楽焼をしている人たちは、清子さんの「自然釉信楽焼」を絶賛します。そして、清子さんが懸命にやってきたことがNHKに取材されます。最初は滋賀のNHKでしたが、それはやがて全国放送されました。

そして、「神山清子」の名前が全国に一気に広がりました。女性陶芸家というだけでも珍しい。しかも、電気を使わない穴窯はさらに珍しいことがメディアに受け、放送を見た視聴者たちの話題になったのです。

息子・賢一の白血病

清子さんが自然釉信楽焼を作る傍らには、いつも息子の賢一さんがいました。物心つくころからずっとそうだったため、賢一さんが焼き物の世界に入るのは自然なことでした。

工業高校では、窯の勉強をする科を専攻しました。卒業後は、窯業試験場でロクロなどの勉強をしました。そして、賢一さんは天目茶碗を気に入り天目茶碗を作りはじめます。

 

そんな母と息子が別の陶芸の極みを目指して幸せな日々を送っていたある日のことです。賢一さんが突然動けなくなり倒れてします。高熱と激しい動悸があり救急車で運ばれます。

病名は「慢性骨髄性白血病」。余命2年半と宣告されます。清子さんはショックで倒れてしまいます。清子さんが起き上がった後は、賢一さんに説明してドナーをどうすれば良いか考えます。

 

秋田に嫁いでいる久美子さんの型は合いませんでした。その後、賢一さんの友人たちで「賢一を救う会」を作ってくれ、その会に行政や各種団体も協力してくれ別の会もできます。

会はマスコミに報道されるようになり、白血病患者の家族同士で情報交換し合います。清子さんはチャリティーで陶芸展を開きながら、ドナーの協力を呼びかけます。

 

その甲斐あって、2000人以上のドナーが集まりました。しかし、賢一さんに合うドナーは見つからないままでした。やがて、別の会「骨髄バンクと患者を結ぶ会」ができ賢一さんがその会長になりました。

賢一さんは、例え自分に合う骨髄がなかったとしても5万人の骨髄が集まれば、白血病患者の多くの命が救われる。その気持ちが強くあったので自らが会の会長になったのです。

ミスマッチの骨髄移植

それからほどなくして、賢一さんの白血病の病状が悪くなります。これまで慢性だったものが急性に変化します。急性になるということは、いつ亡くなってもおかしくない状態を意味します。

しかし、骨髄バンクでドナーを探しても賢一さんに合うドナーは依然としてない状態が続いています。そこで、清子さんの妹・静子さんの骨髄移植しないかと担当医にすすめられます。

 

ミスマッチではあるものの型が近い静子さんから骨髄移植をすることで助かる道を探したのです。清子さんも静子さんも了承して、骨髄移植をすることが決まります。

清子さんは、賢一さんの闘病中に作陶展を開きます。賢一さんの天目茶碗と清子さんの信楽焼を同時に展覧しました。清子さんは、自分に出来ることはそれしかないと賢一さんの手術の成功を祈りながら展覧会を行いました。

 

賢一さんの手術は、無事成功します。そこから清子さんは病院の無菌室で付き添いの生活になります。清子さんの弟子・牛尼瑞香さんと交代で賢一さんの付き添いをします。

手術から3日後に、賢一さんの白血球は上昇します。劇的に症状がよくなっていったのです。そして、この調子でいけば賢一さんは退院できるところまで病状が回復しました。

 

そして、平成平成3年12月に「骨髄移植推進財団」ができます。清子さんや賢一さんが望んでいた財団が遂に設立されたのです。清子さんは、募金活動をしたり財団設立に協力できることを時間があるときにしていました。

白血病患者の少しでも多くの命が救われることに、清子さんは胸を熱くしました。そんなうれしい出来事が起きた少し後のことでした。

再発した白血病

賢一さんの白血病が再発してしまったのです。一時は、集団病棟にうつってもう少しで退院できるところまで来ていただけに清子さんのショックは大きい。

しかも、今度はもう治らないかもしれない。そして、そのことを賢一さん伝えなければならない。そんな、賢一さんに清子さんは、賢一さんが退院したら焼こうと残していた天目茶碗の大壷を焼かせてほしいとお願いします。

 

賢一さんは、清子さんに大壷を自然釉で焼いてもらうことをお願いしました。それから、清子さんは名古屋の病院と大壷を焼きに信楽に帰る往復を繰り返していました。

弟子の瑞香さんが交代で窯を見ます。しかし、瑞香さんが見てる時に温度がどんどん下がってしまいます。瑞香さんは、眠くて眠くて仕方なかったのです。

 

それでも、清子さんが戻った時にどんどん薪を入れ温度を上げていきます。そして、10日以上かかった賢一さんの壷が出来上がったのです。仕上がりは、これまで作った中でも最高のものが出来上がりました。

その壷は、賢一さんの病棟に飾られていました。賢一さんがいつでも見れるように、ずっと見ていられるように置いていたのです。

 

そして、清子さんは賢一さんに伝えなければならない事実を伝えます。賢一さんの余命がもうほとんどないことを。賢一さんは、強がって「知っていた」と言いますが毎晩怖くて泣いています。

そんな泣いている賢一さんの手を清子さんはずっと握っていました。その晩、賢一さんと清子さんは幼いころからのいろんな出来事をずっと思い出しながら話しました。

 

賢一さんには、最後にしたいことがありました。それは、天目茶碗が飾られていた美術館を見にいくことでした。そして、病院の先生の許可を得て美術館に行きます。

しかし、その日はあいにくの休館日でした。一緒にいた先生が代わりに名古屋城に連れていってくれました。名古屋城に行き、賢一さんの希望でラーメンを食べました。

 

名古屋城から病院に帰った翌日、賢一さんは清子さんに抱きかかえられながら亡くなりました。賢一さんと清子さんの闘病生活は、1994年5月21日に終わりました。

清子さんは、その後も清子さんは弟子の瑞香さんと共に骨髄バンクのボランティア活動を続けました。骨髄バンクに登録を。そんな言葉が車には書かれているのです。



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